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(前編) 壁にかかった柱時計がコチコチと音を立てる。 普段はまったく耳に入らない音。 それが聞こえるのは深夜に入ったことを意味していた。 俺は間に人ひとりがはいれるぐらいに股を広げてソファに腰掛けていた。 教会で祈りを捧げるような格好で掌を組み合わせてじっと下をうつむいていた。 いや、実際祈っていたのかもかもしれない。 時折、狂うことなく一定間隔で音を刻む、あのくすんだ褐色の柱時計を見上げた。 「ねぇ、そこのタバコとって。」 俺は彼女に指図されるがままに目の前のガラスのテーブルの上に置いてあった。 タバコの箱とライターを取った。 彼女は回転式のオフィスタイプの椅子を体ごとくるりと反転させると 俺がテーブルの上から取り上げたものを受け取り、 「ありがと。」 と一言った。 そしてまた自分の机に向かうと、もくもくと作業をこなし始めた。 「先生。今日中に、いや、実際は昨日までだったから、 今日の朝方までには終わるんですか?」 「だから今、やっているんじゃない。」 今、詰め込んでやるくらいならもっと前からやって欲しいものだ。 「作品が出来上がっても私がチェックしてGOサイン出さないといけないんですからね。」 彼女は黙ったまま返事もしない。 桃子とは3年前からの付き合いだ。 俺が編集部で担当したこの女の作品は出版当初、 女性に 特に30代のOL層にウケがよかった。 作品が時代を反映していたのだろうか。 その後、彼女が出版した書籍はベストセラーとはいかなくても そこそこ売れ行きを伸ばしていた。 俺が読んでもまあまあ面白いと思ったものだ。 ただ、同じ本を2度3度と繰り返して読む気にはなれなかった。 つまりは芸術的な文学性という性質の類ではなかった。 一流でもなく三流でもなく。 そんな感じか。 生きて、これから本を書く限りしばらくは 「作家」という肩書きで飯を食っていけるだろう。 しかし、世間の流れは早い。 同じ作風では10年ともつかどうかあやしい。 そこで編集者がご意見番となるのだ。 桃子は口を挟む編集者を煙たがった。 いや、どの作家でさえ、自分の作品にケチをつけられたら嫌がるだろう。 以前担当していた編集者と桃子との確執から担当者が変えられた。 それが俺というわけだ。 彼女はメンソール系の細長いタバコにライターで火をつけた。 そしてゆっくりと味わうように肺へと吸い込み、 マニキュアのついた人差し指と中指にタバコを挟んだまま 少し上を仰ぐようなかたちで赤い唇から煙をゆらゆらと吐き出した。 彼女が向かっている机の上のスタンドライトが紫に煙る細長いすじを照らし出す。 彼女は美人というわけでもない。 どちらかと言うと不細工な部類に入るだろう。 いや、はっきり言って不細工だ。 彼女は本のカバーの裏表紙に自分の顔写真を一度も載せたことがない。 一度編集部から頼んだことがあったが、彼女はそれを断った。 今ではそれで正解だったと編集部も思っているだろう。 しかし、彼女が断ったのはその容姿が理由だろうか。 彼女と3年も編集者と作家という立場で付き合ってきた俺にとって それは奇妙な違和感を抱かせた。 彼女はその容姿に関わらず、結構な自信家なのだ。 彼女は自分から積極的に相手と交際し、 わりと有名な芸能人とも付き合ったことさえあるらしい。 交際のあった男の数を誰かから聞いてあまり驚かない俺でさえびっくりしたものだ。 「ねぇ。少し寝てもいい?」 時計の針はいつの間にか4時を回っていた。 新聞配達のバイクのエンジン音が一定間隔で止まっては動き、止まっては動き、 やがて遠くのほうへと走って行ってしまったのか音が小さくなってやがて消えた。 「ダメです。終わるまでは。」 「じゃ、寝ていいんだ。」 彼女は体の上半身だけひねらせて俺のほうへと原稿を差し出した。 「出来たんですか。」 俺は安堵感に包まれた。 いや、ここで安心してはいけない。 眠い眼をこすりながら、俺は彼女の原稿一枚一枚丁寧に目を通した。 「なかなか良い出来です。OKですよ。」 「あっそ。」 彼女はそっけなく言った。 俺は熱いコーヒーを彼女の分と自分の分、用意した。 「もう寝るって言ったじゃない。なんでコーヒーなのよ。」 彼女は悪態をついた。 「まあいいじゃないですか。部屋の中と言ってもこんなに寒いんだし。 それにどうしても眠たいときっていうのは何しても眠ってしまうものですよ。」 俺は自分で煎れたコーヒーを片手ですすりながら、原稿をもう片方の手で 万一コーヒーをこぼしてしまってもかからないように 体から遠ざけ、注意深く持ち直しながら目を細めて再度読み返していた。 「この流れから行くと次の最終回、この少女はかわいそうな最後を遂げるわけですね。」 「私、バッドエンドって嫌い。」 彼女はぶっきらぼうに言い放った。 「何を言ってるんですか。ハッピーエンドなんていまさら流行らないですよ。」 彼女は黙ってコーヒーをすすった。 「それに無理にハッピーエンドにするとどうしてもクサい内容になってしまうじゃないですか。 今の若い女性達はハッピーエンドなんて求めていないですよ。 むしろ自分より不幸な人がいて欲しい。 人生のどん底のような人物を期待してるんですよ。 この少女はその資格があるんです。 これを読む人はたいていこの少女より年をとっている。 女性にとって若さという点においてはこの少女に負けているんです。 だが、人生では負けていない。 なぜならこの少女は実の父親に性的虐待を受け、 そしてそれを見てみぬふりをする弱い母親に育てられた。 やっと怪物のような家から飛び出し、自由に溢れた世間に出ても さなぎから脱皮したばかりの弱々しい蝶のような彼女を食い物にする カマキリのような人間たち。 少女は読者が想像するにもためらう最悪で汚い、おもしろくもなんともない、 どうしようもない人生を歩んできたんだから。」 俺は何かかゆいような気配を察し、ハッとして桃子のほうへ顔を向けた。 桃子は俺が演説者のように饒舌にしゃべっている間、終始にやにやしながら見ていたのだ。 「君、政治家になれるよ。高田君。」 桃子は俺より年下なのだが、その姉御的気質におされ、俺は君づけで呼ばれていた。 「それか小説家になったほうがいいよ。私より売れるよ。きっと。」 俺は何も言えなかった。 桃子はタバコの紙箱から小指の一間接ほど飛び出したシガレットを俺のほうへ向けた。 「あ、高田君は吸わないんだったね。」 「ええ、もうやめました。」 禁煙をもう3年も通している。何があってもいまさら吸う気にはなれない。 桃子は俺に向けた紙箱から一本タバコを取り出すと、火をつけ、煙をくゆらせた。 「これね。私なの。」 「へ?」 俺は自分でも思ってもみなかった素っ頓狂な声をあげた。 「この・・・少女のことですか?」 「そうよ。だから」 桃子は続きを言いかけてタバコに口をつけた。 俺は三つ子の子供のように口をポカンと開けていた。 「・・なんていうのは嘘。まんまと引っ掛かっちゃって。」 桃子はチロリと舌を出した。 俺は少し動揺していたが、体勢を立て直し 「そんなのわかってますよ。」 「いや、絶対本当だと思った。違う?」 俺は頭にふと沸き起こった疑念をすべて消し去って言った。 「そんな今つくったような嘘、見抜けないとでもおもったのですか?」 「そうよね。」 桃子は右手の指で眉の上を掻いた。 「この少女、最後は本当の恋をする予定だったんだけど。 相手はぶっきらぼうで近くにいても全く少女の恋に気付かないんだけどね。 いいの。それで。」 「恋に破れても、世間に敗れても一歩一歩たくましく前へ前へと歩いていくの。 生きたいの。惨めでも生きていたいの。 それがどうしようもない人生の中で彼女が見つけた唯一の生き方だから。」 桃子はテーブルの灰皿に短くなったタバコの先を押し付けた。 少しの間、沈黙が続いた。 「高田君の言うとおり、やっぱりこの少女には似合わない。バッドエンドにするわ。」 「さ、寝よ。高田君はその原稿持って帰って。じゃね。」 俺は部屋から追い出された。 高層マンションの外に出て上を見上げた。 桃子の部屋の明かりが消えるところだった。 何か心にひっかかるものがあった。 それが何であったかはそのときはわからなかった。 |